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Release: 2026/02/24 Update: 2026/02/24

井芹敬介君がフィリピン戦没者墓参巡拝に参加

井芹敬介君(11室)が厚労省事業の一環として2026年2月から2月13日までの日程でフィリピン(比国)戦没者墓参巡拝に参加されました。

フィリピン(比国)戦没者慰霊巡拝を終えて

1 概要

厚労省事業の一環として2026年2月4日から2月13日の9泊10日の日程でフィリピン(比国)戦没者慰霊巡拝に参加しました。一都一府22県にまたがり計67名の遺族の参加でした。私は東京在住でしたので東京都からの参加で熊本県からは2名の参加がありました。遺族の参加資格もありほとんどが戦没者の子、孫、甥、姪の続柄で高齢者が多くまた女性の割合が多いのは戦死した父親や祖父を慕っての慰霊だと理解しました。ただ出発前に高齢の女性が羽田ロビーで倒れ旅行を辞退された事を聞きこの旅は命がけの旅だなと認識しました。同行者として厚労省職員6名厚労省からの随行看護師4名旅行添乗員3名が加わり全行程を参加遺族の世話に努めていました。厚労省も国の行う旅の事業なので遺族の健康維持に万全の注意を払っていました。比国滞在中は毎日3食付きでしたが比国の主食はお米なので食事で苦労する事は無くそれでも中華・日本食・洋食・現地バイキングと毎日日替わりで提供され皆さん満足でした。

一方出発前までは自分たちは戦争の被害者遺族であることを心の隅で思っていましたが比国に到着後慰霊巡拝を重ねるうちに実は加害者遺族に当たることを痛感するようになりました。

2 現地でのスタート・慰霊式への出発

―比国内には数百といわれる部隊の戦没地があるものの広範囲に分散しかつ戦後地形も変わり特定できぬため参加遺族の戦没地に近い31地点を選択し67名の遺族を各々ゆかりある地点に集約しこれを小グループに分け巡拝期間内に31の個別の現地慰霊式を実施しました。私の伯父はルソン島での戦死なのでルソン島巡拝組となり他の遺族はそれぞれミンダナオ島セブ島レイテ島へ巡拝し最終日に全員マニラへ集結し日本大使館員同席で合同慰霊式を行いました。

―ルソン島組の遺族数は最も多い29名でこれに引率する厚労省職員2名看護師2名添乗員1名現地ガイド2名が加わり一行36名でのスタートでした。

―毎朝ホテルロビーでベテラン看護師さんから健康チェックしてもらい血圧・血中酸素濃度・検温・聴診器使用しての胸と背中の検診を受け異常あればホテル内で待機するか現地医療機関との相談となります。

―初日はルソン島南部に位置するマニラからルソン島北部へ飛行機を使用しその後は全日程をバスで移動しマニラへ南下しながら計13の戦没地を一日2~3地点のペースで現地慰霊を行いました。

―各遺族は現地慰霊の前日までに厚労省職員より戦没者戦死に至るまでの経緯説明を受けかなり詳細な戦闘概要を含む個人調査資料を与えられたので私はこの資料を貰うだけでも今回の巡拝事業に参加した価値があると思いました。今まで謎だった伯父の生き様が白日のもとにさらされ享年21歳で戦死した伯父の軍歴内容に愕然とするばかりでした。

―慰霊式を13回行うわけですが設営撤去は厚労省職員と現地ガイドの手で行われその都度移動バスから日比の両国旗、祭壇、果物、花輪を取り出し即席に整えねばならず大変な作業だと思いました。

―戦没地と言っても墓は無く途中で式に見合う適当な空き地・公園を見つけたり運が良ければ公共施設を借りたりとして計13の地点をとにかく巡回しました。

―式では出席者全員に献花用菊の花が一輪ずつ渡されたのち黙とう行い、線香と献花を済ませます。 

―戦没者の遺骨については約15万人分は日本へ返還されるも身元特定できないため千鳥ヶ淵墓苑に合葬されているが未だ37万人分は行方不明で比国周辺の海岸線やジャングル内に残されているとの事です。遺骨を送られた遺族はだれも居らず式終了後に付近の小石を2~3個拾い日本へ持ち帰っていました。土壌は検疫で持ち帰り不可だが小石はOKと他の遺族の方が教えていました。

―式終了後は戦没地ゆかりの遺族が一人ずつ挨拶を兼ねて戦没者にまつわるお話をされるのですがいずれも聞くも涙語るも涙の内容ばかりでした。ある高齢の女性の話では父の出征時には母の胎内にいた事そのまま父は戦死し母も既に亡くなった事母の存命中に口癖のように戦没地を訪れたいと言っていた母の願いが本日ようやく叶ったとの事で母の遺影を胸に号泣されるのを見て同伴の娘さん共々回りの遺族全員が涙を流しました。どの遺族の話も大黒柱を失った妻あるいは家族が自分の子どもたちや幼い兄弟姉妹を抱え戦後の混乱期を生きてきた事あるいは一家離散没落し実家は廃家になった事等を打ち明けていました。

3 戦争の愚かさ

戦死者本人の無念さは元より周りの家族全員に厳しい環境を強いる戦争は愚かでまさに狂気の沙汰であることを今回の比国での慰霊巡拝から裏付けされました。

一つ目の狂気の沙汰は戦前日本政府(日本軍)が総計63万人の大軍(大半が20歳代から30歳代の若者でした)を比国へ派遣した事でした。現在比国に居住している日本人は約14千人なのでこの40倍の日本の若者が比国全土に駐留した計算になります。米英植民地からアジアを解放するという大東亜共栄圏を正義と信じ比国へ侵攻した彼らは結果的には自分たちが占領軍となりました。比国内で数百あるとされた部隊戦没地ですが一部隊2千人として250から300の部隊が主要市町村や海岸線や幹線道路に配置されました。

二つ目の狂気の沙汰は当時の米政府(米軍)が日本からの大軍を耳にして

目には目、数には数で米国全州から125万人の米兵を徴集し(こちらも大半が20歳代から30歳代の若者でした)比国へ送りつけた事でした。圧倒的な兵数と軍需物資の差で日本軍部隊をことごとく玉砕させ519千人の日本兵を戦死させ沖縄戦と同等の82%という驚異的な死亡率を出しています。誰が言ったか忘れましたが“戦争はジイさんが決めオッさんが作戦立て死んでいくのは若者ばかり”の名言通りでした。

三つ目の狂気の沙汰は日米両軍の激突のあおりを受け90万人の比国民間人の命が失われた事でした。これは大戦中の日本国内民間死者数50万人をはるかに超える人数で東京大空襲と同等のマニラ大空襲でマニラ市民10万人が亡くなっています。比国領土を戦場とし何の罪もない比国民を比島全島にわたって失わせるもその代償として日本兵519千人の戦死を招いたと思えば戦争の愚かさをただ嘆くばかりです。比国はアジア唯一のキリスト教国で国民の93%がその信者で元々穏当で平和志向の民族ですが不運にも日米の国益の都合のみで自国全土を戦乱のるつぼと化されました。この点日本は敗戦国ながら局地的な空襲や原爆の被害を受けるも国土の全的焦土化は避けられておりその分だけ戦後復興も早かったと思われます。その比国も今世紀に入りようやく日本同様の加工貿易立国として経済的繁栄を手中に収め始めました。マニラ市中心は新宿並みの高層ビルが立ち並び新時代の夜明け感じさせました。これには日比間の戦時賠償協定での1200億円の供与とその後のODA政府開発援助が貢献しているとの現地ガイドの説明で今ではアジア最大の親日国家になっているそうです。

最後に余談を一つ。

戦後の比国を率いたキリノ大統領は自身の妻と3人の実子を日本軍に銃殺されていましたがクリスチャンでもあったので日本人戦犯死刑囚含む捕虜全員を特赦放免し日本へ送還させています。

以来、時は流れ昨年2025年時点で比国成人男女約25万人が就労目的で日本各地に滞在しています。数人または数十人単位で製造工場、病院、養護介護施設、建設現場、コンビニ、ファミレス等で働いています。もし街中で彼ら彼女を見かけましたらそして親しい態度で接してもらえればその昔かの地で戦没した日本の若者の魂も幾分かは和み救われるのではと推量致します。

以上拙き文をお読みいただき有難う御座いました。

2026224日 井芹記

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