フィリピン戦没者墓参巡拝の写真
先日記載しました井芹敬介君から巡拝の写真が送ってきましたので紹介します。
写真説明
厚労省から記念写真の提供ありましたが他の遺族の方々の顔写真で識別可能な場合SNSやブログでの活用は差し控えてほしいとの要請もあり集合写真類は割愛しています。
1現地での個別慰霊式
ルソン島巡拝組は計13の戦没地を巡拝し各々個別慰霊式を開いた。班長は厚労省職員さんでこの方の指示の下で同行ガイドと協力し日比国旗を掲げ簡易祭壇を設果物・花輪・線香台を置き班長の司会で開会され対象となる遺族を紹介し黙とうを行う。そのあと対象遺族の献花(菊の花)に続き他の遺族を含む参加者全員で3人ずつ献花を行う。同様の順で線香上げを行い最後に対象遺族の挨拶を受けて式終了となる。この間の所要時間は約1時間。私物のお供え品を除き祭壇含め全てを撤去し移動バスへ積み込み次の巡拝地へ出発する。
2ルソン島北岸
アパリという港町の波止場で個別慰霊式を開き終了後参加者全員で献花した菊の花を海岸へ投下した。ルソン海峡に面しその向こうは台湾高雄で距離わずか250kmで目と鼻の先。日本軍はこの海峡を渡って侵攻したが上陸前に交戦となり多くの日本兵が戦死した。そのお弔いも込めて献花を投下する。ちなみにこのアパリは室町時代には日本の海賊“倭寇”の拠点で多数の海賊船を擁しここから出撃して中国沿岸を襲い海賊行為を働いていたとの現地ガイドの説明。事実とすれば日本民族は古来より攻撃本能旺盛なのかもしれない。
3個別慰霊式で挨拶
ルソン島北部の平野部での個別慰霊式で挨拶する筆者。この地での他の戦没者遺族はいなかったので私1人のための慰霊式となった。私の伯父は1941年12月8日真珠湾攻撃に呼応して日本軍の先遣部隊の1員として12月10日港町アパリに侵攻したあと斥候兵としてマニラへ南進する途中で交戦となり戦死した。上陸後12日目に命を落とし彼の青春もこの地で終えた。
4個別慰霊式の準備
持参した和菓子の陣太鼓と娘の作製した折り紙細工の球を供えた。看護師さんの1
人がこの和菓子を見つけ“熊本名産でおいしいですよね。熊本地震の時に厚労省救護班として現地入りしてました”と話されたので“その節は大変お世話になりました。”と丁重にお礼申し上げた。どこへ行っても世間は狭いものです。ちなみに陣太鼓は銀座の熊本館で調達。
5山下奉文大将の降伏場所―ルソン島中部
“生きて虜囚の辱めを受けず”とする戦陣訓を捨て1945年9月2日司令部の洞窟から米軍へ出頭、ここの小学校で降伏表明。ボツダム宣言受諾後も戦闘を続けていたが部下をこれ以上死なせるには忍びないとして自ら出頭。軍事裁判を受け1946年2月23日に戦犯第1号としてマニラで処刑された。ちなみに極東裁判(東京裁判)でA級戦犯が処刑されたのは1948年12月23日。
6ルソン島中部での個別慰霊式
奥羽山脈に似た山々を背景にして3名の戦没者遺族の方々に対する慰霊式を行った。帰れぬ祖国を思い故郷の山に似た山に同名の名前をつけて故郷を偲んでいたとの遺族の方の説明あり。
7ガジュマルの木
沖縄でも自生しているこの木は比国でも森林の1部を形成している。幹や枝から垂れ下がる“気根”が地面に届くとそのまま太い柱となる。この気根は他の木にも巻き付き寄生して大きくなるという特徴を持つ。
8サボテンの花
常夏の国なので常夏の国なので色々なサボテンが大きく成長し各種の花を付けている。
9密林の山々―ルソン島中部
米軍に追われた日本軍は密林の山々に逃げ込んだが終戦後は投降して山から下りてきた。しかしそれまでに飢えとマラリアで多数の戦死者を出しているがほとんどの遺骨は行方不明のままである。
10すずなりのやしの実
通常やしの木一本で1房に10個の実を3房つけるので計30個の実をつける。常夏なので年中実をつけ収穫すると別の房で実をつけるとの事。
11現地の子供たち
慰霊式を行っていると近くの子供達が集まってきて興味深く見つめていた。弟妹の世話を良くみていた。
12巨大なショッピングモール
帰国に備え比国みやげを買う為にとマニラ市内のショッピングモールに案内してくれた。シカゴやロスに負けない位の巨大なモールで日本のイオンモールの3倍位の大きさであった。
13合同慰霊式
最終日はマニラ郊外の日本庭園の中にある比島戦没者の慰霊碑にて合同慰霊式を行った。ミンダナオ島セブ島レイテ島の参拝組も含め遺族全員の67名が集合した。式の始めに黙とうを行い慰霊団の最高年齢男性(85歳)の方が挨拶され今回の慰霊事業に対するお礼を述べられた。団長(厚労省代表)や比国大使館からの追悼の辞のあと参加者全員で献花を行った。最後に遺族の方のハーモニカの伴奏で“兎追いしーー”のふるさとの歌を歌った。菊の花輪も24個分の参加遺族の出身自治体の知事(1都1府22県の計24)から届けられていた。
14熊本県知事からの供花
熊本県からの参加遺族があったため熊本県知事から供花が届けられた。



















